第21巻第2号(2023年12月発刊)抄録集

公開日 2024年01月23日

巻頭言

 中井久夫先生が亡くなってから1年余りが過ぎた。統合失調症の寛解過程論、風景構成法の考案、精神科治療に関する文化人類的考察、SullivanやEllenbergerのわが国への紹介、現代ギリシャ詩の翻訳、そして静謐な随筆など、溢れるような知識と驚嘆する思索で、多くの人を魅了してきた。

そして、日本のトラウマ学に関する大きな貢献は、重要な書籍の翻訳である。中でもJ.Hermanの「心的外傷と回復」は、中井の翻訳でなければ広く読まれることがなかったのではとさえ思う。阪神・淡路大震災後に作られた「こころのケアセンター」の責任者を引き受けた中井は、主なスタッフをその年の秋にロサンゼルスに派遣した。前年の1月17日という同じ日付に起きたノースリッジ地震後の心理的支援について、研修を受けるのがその目的であり、筆者も参加する機会を得た。R.Pynoosから講義を受けるためにUCLAに行った際、学内の書店で平積みにされていた本書が目にとまり、持ち帰って中井に紹介した。中井によれば、翌年の3月から憑りつかれたように訳し始め、その秋には出版された。

 中井がこの本に没頭したのは、二つの理由からだと思う。一つは自らが戦時中に体験した壮絶ないじめについて考察するきっかけになったことである。後に、いじめは孤立化、無力化、降伏、そして透明化の過程を経ると論じたが、その考察を深めたのが本書であった。また、Harmanが歴史的考察の中で、女性が受ける性被害を「性戦争」と呼び論述していることも、戦争の記憶が鮮明に残る世代である中井にとって大きな刺激となったに違いない。

 訳者あとがきの終わりに「かつて、ある軍医は自分が一人救う間に戦争は何人も殺し傷つけることかと嘆いた。今、ここでボスニア、チェチェンなどと地名を挙げても出版の時には変えなければならないかもしれず、追加しなければならないことを恐れるけれども、世界中で起こっている虐殺や暴力や飢えや悲惨を思う時、また世界の街や村や学園や家庭で荒々しくあるいはひっそりと密かに起こっている残虐の暗数のおびただしいであろうことを思う時、そこから日々生まれているであろう心的外傷の質と量との巨大さに私はめまいを起こさないではおれない」と記している。ウクライナやガザで日々起きている惨劇に接すると、人類は心的外傷を繰り返し忘れ、何も学習していないという絶望と無力感に苛まれてしまうのは私だけであろうか。

2023年10月

兵庫県こころのケアセンター

加藤  寛

特集 性犯罪規定の刑法改正

性犯罪に関する法改正の概要

浅沼 雄介
2023 年6 月に成立した性犯罪に関する法改正について,その経緯や概要を紹介する.
 

性暴力を処罰できる刑法改正へ―被害者当事者の立場から

山本  潤
女性の約14人に1人,男性の約100人に1人に無理矢理の性交被害経験がありますが,警察に連絡・相談したのは5.1%です.性被害の訴えにくさと,裁判官によっても判決にばらつきが生じることが問題となってきました.私は,2015年から性被害当事者らとともに刑法性犯罪改正運動を行い,2020年からの3年間,法務省が設置する専門家会議に委員として参加しました.「性的同意」についての見解には相違があり,当初の処罰規定は「拒絶の意思」として提案され,被害者側の納得を得られるものではありませんでした.性暴力の実態に即し,「性的同意」を中核とする変更を求めた結果,「同意しない意思」に修正され2023 年6 月不同意性交等罪が制定されたことは,画期的な変化といえます.本稿では,これまで当然のように繰り返されてきた性暴力に対する抗議の声が,刑法改正に結びついた経緯を振り返り,性暴力を許さない社会について考えます.
 

性犯罪の刑法改正について―精神科医の視点から

小西 聖子
筆者は2017年,2023年に施行された性犯罪に関する刑法の改正に法制審議会臨時委員,2023年改正については刑事法検討会委員として参加した.最新の改正の重要な部分について,約30年被害者の精神科医療や被害者精神鑑定にかかわった立場から検討した.特に不同意性交等罪における8項目の例示列挙について,いわゆる性交同意年齢の引き上げについて,また刑事訴訟法における性犯罪の公訴時効の引き上げについての3点を中心に精神医学的視点および心理学的視点から考察した.これまでより被害者の被害時の心理や行動に関心を向けた改正であるが,不同意の判断は裁判官に委ねられているから新法の運用を注意深く見ていく必要がある.
 

性犯罪の刑法改正について  心理職の立場から考える

齋藤  梓
本稿では,2023年に行われた性犯罪に関する刑事法改正について,心理職の観点から意義と課題を述べる.今改正は,不同意性交等罪・不同意わいせつ罪の条文に「同意」の言葉が入り,8つの要件が作成されたこと,性的同意年齢が引き上げられたこと,公訴時効が延長されたこと,性的面会要求罪や同意のない撮影を捉える罪が新設されたことなど,性暴力被害の傷つきや,被害に直面した人の心理の実態に即した意義ある改正だと考えられる.一方で,今回改正で捉えられない被害はないか,公訴時効は撤廃すべきかなど,今後の運用を注視し,調査や議論を重ねるべき点も残されている.さらに,被害者支援の拡充,被害に直面した際の人の心理に関する研究の蓄積,社会への適切な情報伝達等,検討すべき点があると考えられる.
 

不同意性交等罪の基本構造について

橋爪  隆
2023年6月に性犯罪に関する刑法の罰則が大幅に改正された.この改正は,改正前の強制性交等罪および準強制性交等罪を統合するかたちで,「同意しない意思の形成・表明・全うが困難な状態」における性交等を犯罪の中核的な要件として規定し,これを不同意性交等罪と改めるものである.また,いわゆる性交同意年齢も引き上げられ,13歳以上16歳未満の者に対する性行為も,対象者の同意の有無を問わず,一定の範囲で不同意性交等罪として処罰されている.
本稿は,そもそもなぜ性犯罪に関する法改正が必要であったかまで遡った上で,不同意性交等罪の基本的な構造や成立要件を,法律家以外の読者を主たる対象として,できるだけ平易に解説し,今回の法改正の意義について,筆者なりの評価を示そうとするものである.
 

性犯罪に関する法改正に参加して

宮田 桂子
法改正の中でとくに問題と感じるのは,①検察官立証を著しく緩和する条文や,一読して対象範囲がわからない要件に加えて,「類するもの」という類推解釈を許す条文という,悪しき前例を作ったこと,②法定刑の下限が重くなったことで,固い証拠が要求されて不起訴が増えるなど,被害者にも悪影響を及ぼす危険があること,③性犯罪被害者以外の幅広い者を対象とした,到底「司法面接」とはいえないものまで含み得る,聴取の録音・録画媒体の主尋問代替が認められたことの3点である.被害者が「不同意だった」といえば有罪認定ができるわけではなく,被害者の供述を他の証拠等と照らし合わせて有罪認定に供し得るかどうか判断しなければならないところ,近年その判断が弛緩していないか危惧している.加害者を更生させるためには,重罰化には効果がなく,加害者が体験したトラウマ体験や発達特性に応じた処遇や,受刑後の社会内における伴走的支援が不可欠だ.
 
 

【原著】

児童の自画撮り画像送信・掲載行動のリスク要因

櫻井  鼓・上田 順一・藤田 悟郎
わが国では児童の自画撮り被害が社会的問題となっている.しかし,その研究数は少なく,自画撮り画像送信・掲載経験のある児童の割合やその関連要因については十分に明らかにされていなかった.本研究の目的は,わが国の一般児童による自画撮り画像送信・掲載行動の関連要因を明らかにすることであった.ウェブ調査を実施し,第1回調査では若年成人18,564人を対象に,18歳未満での自画撮り画像送信・掲載経験を尋ねた.第2 回調査では,そのうちの1,030人に対して関連要因を尋ねた.その結果,経験割合は2.4%,関連要因は父母との関係,友人関係の回避,逆境的体験であることが示された.特に,逆境的体験によるトラウマによって,現実世界での他者との親密な関係を避け,ネット上での関係を希求するようになることが示された.今後の児童への予防教育の観点から考察する.
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