第2巻第1号(2004年2月20日発行)抄録集

公開日 2004年02月20日

巻頭言

日本においてトラウマに対する関心が高まったのは,1995年の阪神・淡路大震災の後だと思います.多くのボランティアが被災地に駆けつけ被害者のケア活動を行いました.その後,えひめ丸沈没事故,大阪教育大学附属池田小学校事件,ニューヨーク多発テロ事件など思いもかけない事件が相次ぎ,トラウマに対する認識は一般のものとなってまいりました.このような背景から,トラウマティック・ストレス学会が立ち上がって1年半になりますが,現在,会員数は700名を超えるようにっており,この分野に関する社会の関心の高さが伺えます.現在まで,このようなトラウマのケアを専門的に扱う機関は数少なかったのですが,2003年4月には,池田小学校事件を契機とした大阪教育大学に全国共同利用施設・学校危機メンタルサポートセンターが設置されました.2001年6月8日,大阪教育大学附属池田小学校において23名の児童及び教員が殺傷され,児童・保護者・教員が精神的に大きな傷を受け,長期にわたるケアが必要とされております.このような学校の危機の発生に対して専門的に対応できる組織的包括的な活動を支援できる研究・教育機関に対する社会的要請が高まっていることを受けて,センターは設置されました.センターにはトラウマ回復部門,心の教育部門と学校危機管理部門があります.トラウマ回復部門では,心的外傷を受けた児童・生徒などの臨床的な技法やトラウマケアの実践と研究や,PTSDについての生物学的,心理学的および社会学的な多面的な研究をしてゆきます.また,学校危機管理部門では,学校安全を実現するための予防,危機介入および支援システムの研究を行います.今後とも皆様のご指導,ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます.

2004年2月
大阪教育大学
学校危機メンタルサポートセンター
元村 直靖 

特集にあたって

金 吉晴

 心的トラウマというのは非常に広い概念である.それを客観的に定義すれば,体験した出来事が誰にとっても非常に強い恐怖を与えることであり,主観的に定義をすれば,体験をした本人が,その体験から強い持続的な心的な苦痛を生じているものということになる.精神分析の始祖であるフロイトは,当初は客観説に立ち,患者の訴える幼児期の外傷体験はすべて本当のことであると考えたが,次第にそれは無意識の欲動に基づいたファンタジーであるという,主観的な定義の立場をとるようになった.
 今日でもトラウマというときには,このような主観説がとられることが多い.「心理臨床大辞典」の「外傷体験」の項目をみると,「外傷体験という場合,個人の主観による体験が重要である」と書かれており,臨床心理の臨床においてはこうした主観説が強い影響をもってきたことがわかる.
 しかし,現代のPTSDは,こうしたトラウマの考え方はずいぶん違っている.それはベトナム戦争後症候群などのように,現実の悲惨な体験による精神的な後遺症をまとめることから出発したものである.したがってまず第一に,体験した出来事それ自体が,戦闘体験に匹敵するような強い恐怖,悲惨さをもたらすことが必要である.裏切り,喪失,失望,恥辱,など普通には含まれない.次に症状としては,侵入(再体験,フラッシュバック),回避麻痺,過覚醒という症状が求められる.こうした症状は,トラウマという言葉から連想されるさまざまな症状からみると,明らかに狭い,たとえば臨床的にしばしば問題になる罪責感,汚れの意識,被害感情,喪失感,基本的な信頼感の喪失などは含まれない.その他にも,体験後に何らかの反応が見られること,症状の持続が1か月以上,職業や生活の機能の上での著しい障害,などの条件が加わる.
 こうしてみると,PTSDという診断は意外に狭いものである.多くの臨床家がトラウマという言葉によって名付けたいと思う現象の,一部しか表していないと思われるのではなかろうか.実際にその通りであって,トラウマというのは歴史的にも非常に広い概念であるし,
 その受傷と回復のプロセスも,単に医療や心理モデルに留まらず,対人的相互作用,社会的活動を含めた幅の広い現象として考える必要がある.
 この特集では,これまでPTSDというひとつの言葉だけで語られがちであったさまざまなトラウマ反応について,多面的な見方を与えることにしたい.

ドメスティック・バイオレンス被害と人格への影響

加茂登志子 氏家由里 大塚佳子 東京女子医科大学精神医学教室

ドメスティック・バイオレンス(以下DV)被害と人格への影響を俯瞰するために、本問題を理解する上で歴史的に重要と思われる、バターウーマン・シンドローム、マゾヒスト的人格障害、複雑性PTSD、破局的体験後の持続的人格変化について論じた上で、これらの共通点、相違点および今後の課題について考察した。

DV被害者の面接時の特徴として、断片化され統合性を失った陳述と自己評価の著しい低下を主体とする認知の歪みがあげられる。これら特徴によって、DV被害者の訴えや症状は他者にさらに理解されにくくなる。このような状態を生じる要因として我々が第一に考慮すべきは、トラウマ性ストレス症状や抑うつ症候群からなる精神医学的急性期症状の影響だが、一方で、そこに不可逆的な人格構造の変化が生じている可能性についてもまた視野にいれておかねばならない。

最後に、長期反復性トラウマ被害者の人格の問題を横断面的に捉えて「人格障害」とすることの危険性を再認する目的で、人格障害と誤診されたDV被害者の1症例を提示した.


 拷問とトラウマ

宮地尚子 Naoko T. MIYAJI, M.D., Ph.D.
一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻

本稿では、拷問の定義、拷問のトラウマについて考えることの社会的意義、拷問の実態、具体的内容とその影響、とくに精神的拷問の特徴について概説を述べるとともに、筆者が訪問した米国の支援施設の取り組みを紹介する。

拷問は意図的に人間の精神を破壊するよう工夫されたものであり、被害者の主体性や思考、判断が弄ばれつつ、
(1)自己像の破壊、
(2)他者や世界への基本的信頼感の破壊、
(3)加害者の内在化が、反復・強化されるものと考えられる。

被害者の回復支援には、狭義のトラウマ治療に留まらず、現時点でのストレスへの対処や家族・コミュニティへのアプローチなど、「多元的エンパワメント」が重要である.


PTSDと複雑性悲嘆との関連 -外傷的死別を中心に-

白井明美 小西聖子  武蔵野大学

事件、事故、災害等のトラウマティックな出来事によって親密な者と死別する場合、これを「外傷的死別」と定義することができる。外傷的死別による遺族への支援を考えるには、トラウマと複雑性悲嘆の両方に焦点を絞った治療法の確立が必要であろう。そこで海外の文献を概観しトラウマと複雑性悲嘆の研究の動向と課題を示した。

(1)複雑性悲嘆の概念の診断基準は意見が分かれており、Horowitzと Jacobs, Prigersonらの2つの研究グループがある
(2)Raphaelらにより複雑性悲嘆とPTSDには、症状の類似性と質的相違があることが知られ、臨床的研究が進められている、
(3)外傷的死別における悲嘆反応とPTSDの関連についての研究も進められている。

今後は日本において、外傷的死別における臨床研究の蓄積が必要であり、複雑性悲嘆の概念やPTSDとの関連についても議論を進めることが望まれる.


心臓移植待機中に死亡したレシピエント候補者遺族のトラウマ反応 -UCLA Medical Centerで経験した2例から-

西村 浩  厚木市立病院精神神経科

1997年10月、日本でもようやく脳死臓器移植が行えるようになり、6年間で25例余りの脳死臓器移植ドナーがあらわれ、数多くの日本人の生命が救われてきたが、2003年9月時点の移植待機者として心臓71名、肺74名および肝臓63名などが登録され、自動除細動機を、あるいは補助人工心臓等を使用しながら、いつとは知れないドナーの出現を待ち続けている。

一方で乳幼児、学童、生徒達は海外に渡航して待機せざるを得ない状況が依然として続いており、生体移植が不可能で急死の可能性の高い心臓移植ではなおさら深刻な状況である。今回は米国へ渡航しての待機中に急死した2つの事例を報告したが、このような悲劇は当面は起こり続けかねないと考えられる。

臓器移植医療の普及につれて、術前術後を問わず移植医療現場でのさまざまなトラウマ反応は今後もあらゆる場面で発生が予想される.


心因反応とPTSD

金 吉晴  国立精神・神経センター精神保健研究所 成人精神保健部部長

心的トラウマは広い概念であり、PTSDはその一断面を特殊な仕方で切り取ったものである。さらに、心因性疾患はより広く、伝統的には悲嘆喪失反応、死別反応、賠償神経症、驚愕反応など、さまざまな病態が記載されてきた。

1980年のDSM-Ⅲ以降、こうした心因反応という診断は認められなくなったが、その中でPTSDだけが認められてきたために、本来ならば心因反応として診断されるべき病態が、PTSDとして診断されることになりやすい。また臨床的にPTSDと喪失悲嘆反応、ことに外傷的死別反応は同時に生じることが多いが、喪失悲嘆や死別反応の診断基準が整備されていないために、これらの病態もPTSDとして考えられやすい。実際には症状の間に相違があり、臨床経過に応じて片方が優位にみられることもあり、注意を要する。

PTSD診断が好まれる背景には、司法的な被害の認定に使われやすいという事情のほかに、PTSDに関して、外因性のボーダーライン的とも言える状況が生じやすいことも一因である.


大学生におけるIrrational Beliefsと外傷後ストレス障害(PTSD)発症との関連性

中川 高  文教大学大学院人間科学研究科

  1. 「irrational beliefs(不合理な信念)」と外傷後ストレス障害(PTSD)発症との関連性について検討した。大学生935名を対象に、出来事チェックリスト、PTSD症状の強度を測定するIES-R、不合理な信念の程度を測定するJIBTを用いた調査を実施した。外傷的出来事の体験者群と非体験者群のJIBT得点を比較した。結果は、外的無力感を除き、両群間に有意な差はみられなかった。

    IES-R得点によるPTSD群と非PTSD群のJIBT得点を比較した。結果は、PTSD群では非PTSD群よりも、自己期待、問題回避、内的無力感、外的無力感に関するJIBT得点が有意に高かった。

    これらの結果から、自己期待、問題回避、内的無力感という3つの不合理な信念は、外傷的出来事の体験によって、その程度は変化せず、外傷的出来事の体験以前からのPTSD発症の脆弱性の1因子となり得る可能性が示唆された.


災害救援者の心理的影響 -阪神・淡路大震災で活動した消防隊員の大規模調査から-

加藤 寛 (財)21世紀ヒューマンケア研究機構・こころのケア研究所
飛鳥井望 東京都精神医学総合研究所ストレス障害研究部門

災害救援者の心理的影響を検討するために、阪神・淡路大震災で活動した消防隊員を対象とした調査を行った。

震災から13カ月目のPTSD症状について、Impact of Event Scale(IES)を用いて評価したところ、震災当時の勤務地が被災地内であった者(被災地内群)は、被災地外から救援に派遣された者に比べて、IESの得点が有意に高いことが示された。また、被災地内群のPTSD症状にどのような要因が影響するのか、ロジスティック回帰分析を行ったところ、個人的な被災状況、悲惨な現場への暴露の強さだけでなく、住民からの苦情や非難などによって喚起された自覚的苦悩が、高オッズ比を示すことがわかった。

災害救援者のメンタルヘルス対策を考える上では、多次元の要因に注目し、総合的な対策が検討される必要がある.


乳がん生存者のPTSD症状に関する研究

朴 順禮  慶應義塾大学看護医療学部

術後1年以内の乳がん生存者を対象に、PTSD症状、不安・抑うつおよびコ-ピングについて質問紙調査を実施した。74名中24名(32.4%)がPTSDハイリスク群となり、PTSDハイリスク群はローリスク群に比べ、不安、抑うつの出現率が高く、コ-ピングでは悲観(Helplessness / Hopelessness) 、あきらめ(Fatalism)、不安の投入(Anxious preoccupation)といったサブスケールにおいて両群間で有意差が認められた。PTSD症状発現への影響因子としてロジスティック回帰分析を行った結果、不安の投入が有意な因子として抽出された。

PTSD症状を呈する乳がん生存者は不安や抑うつ反応を示すことがあり、がんに有効でないコ-ピングを用いる傾向が確認された。がん生存者の精神的反応の一端としてPTSD症状を考慮すると共に、心理的介入が重要であると考える.


日本の消防職員における外傷性ストレス

畑中美穂 筑波大学心理学研究科
松井 豊 筑波大学心理学系
丸山 晋 淑徳大学社会学部
小西聖子 武蔵野大学人間関係学部
高塚雄介 常磐大学コミュニティ振興学部

本研究では、全国から無作為に選ばれた消防職員を対象として、職務上の体験がもたらす外傷性ストレスを検討する。無作為抽出された日本の消防職員1,914名に対して、人口統計学的変数および職業関連変数や、衝撃的な体験の有無を尋ね、改訂出来事インパクト尺度を実施した。

職務上衝撃的な体験をした者は、全体の58.1%であり、衝撃的な体験があった者のうちIES-RによってPTSDの可能性が高いとみなされた者は15.6%であった。IES-R得点に関する予測因は、ストレス症状を自覚するような災害との遭遇頻度と災害現場での活動時の症状、および勤続年数であることが示された。

これらの結果から、繰り返し災害に暴露されるという職務の特性が、消防職員の外傷性ストレス反応を悪化させていることが示唆された.


日本の大学生における外傷的出来事の体験とその影響 (短報)

長江信和 日本学術振興会、早稲田大学人間科学部認知行動学研究室
廣幡小百合 国立精神・神経センター精神保健研究所成人精神保健部
志村ゆず 長野県看護大学看護学部
根建金男 早稲田大学人間科学部認知行動学研究室
金 吉晴 国立精神・神経センター精神保健研究所成人精神保健部

本研究では、首都圏の一般学生を対象として、外傷的出来事の体験率や外傷後ストレス障害の有病率、および、外傷的体験が生活の質や健康に及ぼす影響について横断的な調査を試みた。その結果、対象者における外傷的出来事の体験率は27.59%、外傷後ストレス障害の有病率(過去一ヶ月)は2.59%であると推定された。外傷的出来事の体験者と未体験者の間に、精神的健康や生活の質に有意な差は認められなかった.

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