第5巻第2号(2007年9月発行)抄録集

公開日 2007年09月01日

巻頭言

 今年は文字通り五月晴れのさわやかな日々が多かった.テロ・地球温暖化と,私たちの生存を脅かすような不安の多い21世紀,来るべき季節が巡ってくることへの感謝と安ど感があったように思う.
 しかし,楽しいはずのゴールデンウイークに起きた遊園地での凄惨な事故,少年による戦慄の殺人事件に震撼させられた季節でもあった.遊園地での事故では凄惨な現場を目撃した多数の人々が救急搬送されたと聞くが,当事者でもないこれらの人々はその後のケアを受ける機会があるのかどうかが気にかかる.
 多くの事件・事故被害者がまず接する警察官,救急隊員の対応,そして病院の救急外来,外科・整形外科,内科外来でのプライマリーケアから被害者ケアは始まるといってよいだろう.被害者との初期接触では,いわゆる精神専門家が行うような危機介入やカウンセリング的アプローチではなく,それぞれの職種の役割に基づいた,その職種でなくてはできない対応が求められる.例えば警察官によって正義を守るという毅然とした姿勢が示されることや,病院では不足の事態で傷ついた人々への常識的なねぎらい,いたわりと,急性ストレス反応についての簡単な教育,など.裏を返せば,それらが欠如した時には,二次被害がそこから始まる可能性がある,ともいえるかもしれない.
 警察官,救急隊員,救急センターの医療従事者もまた人間であり,非日常的な事件・事故に暴露され続けることで,感情の麻痺や共感能力の低下をきたす可能性がある.常に冷静な対応を求められるプロの態度として,感情の抑圧を期待されているのかもしれない.しかし,非日常的事態に遭遇する専門家を真に専門家たらしめるのは,感情の抑圧ではなく,そのような場でこそ,人の心を理解して行動できることではないか.
 被害者のケアは,被害者と,被害者を取り巻く人々の間の人間関係の学問ともいえるだろう.机上の学問ではないのである.人間関係の学問は,自分がもし被害者の隣人だったら,どう被害者に対応するか,という現実的な日常生活の中に還元されてこそ,生きた学問になるのではないだろうか.
 最近,品格という言葉をよく耳にする.被害者ケアの理念が,社会の品格を高めることを信じてやまない.

2007年9月
聖路加国際病院リエゾン精神看護師
川名典子

【特集】トラウマと自殺

特集にあたって

重村 淳

 わが国において自殺が深刻な社会問題となって久しい.新聞を開いても,「過労自殺」「いじめ自殺」など,自殺関連の報道を毎日のように目にする.1998年に年間自殺者が3万人を超えていこうは同水準が続いたままで,他の先進国と比較してもきわめて高い水準にある.厚生労働省障害者保険福祉部はこの事態を受けて「このままでは国家の危機につながる」と力説した(読売新聞,2005年6月26日).
 自殺者の大半は精神疾患に罹患し,なかでもうつ病とアルコール依存症が大半だったことが過去の研究で報告されている.それゆえに,これまでの対策は,個人レベルを対象とした医療福祉上の対策が主体であった.厚生労働省ならびに各自治体,専門家たちが本腰を入れ,自殺者を減らそうと取り組んできた.しかしながら,自殺者数の減少には歯止めがかからなかった.これを受けて,内閣府には「自殺総合対策のあり方検討会」が設置され,今年4月に「総合的な自殺対策の推進に関する提言」が発表された.そこでは,自殺を社会全体のメカニズムによって生じた転帰と考え,従来の医療福祉レベルを超えたマクロ的な対策を提言している.よって,今後の自殺対策においては,司法,経済,教育など,他方面からの取り組みが今以上に求められるだろう.
 もっとも,医療福祉の領域内でできることもまだまだあるはずだ.臨床の現場では,職場や学校でのいじめ被害者が反応を起こしたり,自殺者の遺族が遷延した悲嘆に苦しむなど,自殺とのトラウマ反応との相互関係を示唆する症例が頻繁に見受けられる.しかし,その詳細を検討した報告はまだまだ少ないのが現状である.
 本特集「トラウマと自殺」では,様々な切り口から執筆をいただいた.自殺に関する内外の疫学的データを検証した.「自殺の疫学研究」をはじめとして,自殺に至るまでの心理的過程に踏み込んだ「自殺者の心理」,就労者における職場内いじめに関連する報告をまとめた「ハラスメントとしての職場いじめ:その現状と課題」,学校現場での自殺を扱った「精神発達の視点から見た子どもの自殺行動」,救急現場での介入に関する「救命救急センターから見た自殺―心的外傷体験を持つ症例を中心に―」,自殺後に遺された遺族のサポート対策を論じた「岩手県精神保健福祉センターにおける自殺者遺族交流会支援方法の検討」と,今後ますます重要視される題目が揃っている.本特集が,読者の皆様が活動される各分野において役立つことを願っている.


自殺の疫学研究

勝又陽太郎・松本 俊彦・竹島 正
国立精神・神経センター精神保健研究所

近年,国際的にも自殺は重要な公衆衛生上の問題となっている.わが国においては1998年に自殺者が3万人を超え,以降その水準のまま推移しており,自殺対策は喫緊の課題である.効果的な自殺対策を行うためには,自殺の背景要因を含めた実態把握が不可欠であるが,わが国におけるこれまでの研究成果は乏しい.本稿では,世界各国で実施されてきた自殺の関連要因に関する研究を概観し,わが国における実態分析のあり方について論じた.


自殺者の心理

張 賢徳
帝京大学医学部附属溝口病院精神神経科

自殺予防を考える上で,自殺者の心理に目を向けることは欠かせない.ある事象の予防策を考えるとき,その事象全般に通ずる普遍性(共通項)を見出そうとする態度が自ずと生じる.自殺者の心理では,例えばS.フロイトは「死の本能」に行き着いた.しかし,これはあまりにも観念論的で臨床的に役立ちそうにない.日本でも有名な自殺学者であるE.シュナイドマンは,自殺者の心理として「精神痛」という共通項を指摘している.これは臨床的に有用である.しかし,「精神痛」の中身は単一でないことに注意せねばならない.それは多様で個別的である.したがって,治療は多様で柔軟な対応が必要となる.しかしながら,同時に,自殺者の心理や「精神痛」をある程度類型化する視点もまた重要である.
E.シュナイドマンは「精神痛」だけでは自殺は起こらないという.彼は幼少時期の問題に基づく精神面の脆弱性を重視する.同じく日本で有名なJ.マルツバーガーは,個人の発達史とストレス反応様式が重要であるという精神分析的視点を展開している.自殺傾向の強いそのような一群があることは,臨床上の経験にも合致する.しかし,注意せねばならないことは,そのような問題や脆弱性を持たない人にも自殺は起こるということだ.発達史に特に問題のない人がうつ病になり,自殺が起こりえる.うつ病ないし抑うつ状態の存在にも注意せねばならない.


 ハラスメントとしての職場いじめ:その現状と課題

重村 淳・野村総一郎
防衛医科大学校精神科学講座

近年のわが国では,労働環境の著しい変革とともに就労者のメンタルヘルスが社会的関心を呼んでいる.労働環境の変化は職場内対人関係にも大きな影響を与えうるが,なかでも職場いじめは,被害者の健康に大きな支障を来す重大な課題である.ハラスメントの一種である職場いじめは,対人関係上に起こる主観的な事象ゆえに明確な定義は定まっていないが,過去の報告では3~8割もの就労者が職場いじめ経験を報告しており,ごく一般的に見られる現象である.職場いじめは隠蔽されやすく,陰湿かつ反復的となりうる.被害者への影響は多彩かつ深刻で,気分障害やストレス関連障害を来すほか,自殺へ至る場合もある.また,職場への悪影響として,士気や生産性の低下,欠勤や離職率の増加が生じうる.今後,被害者のケア対策と同時に,安全配慮義務遵守の一環としての職場レベルでの対策が求められる.


精神発達の視点から見た子どもの自殺行動

笠原 麻里
国立成育医療センターこころの診療部育児心理科

わが国の青少年の自殺は,この世代の死因の上位を占める重大な問題である.思春期以降の年代で,若者の自殺件数は増す傾向にあるが,手段別自殺死亡数からは,若者は身近な生活圏にある手に届く手段を用いる傾向がうかがえる.また,より年少の子どもにおいても,その子どもの持つ死の概念をもって,死ぬことを意図して行われる自殺行動はあり,死に至る可能性の十分に高い手段が選択される場合も少なくない.本稿では,幼児期,学童期,思春期の自殺行動の症例を文献検索および症例提示し,各症例の背景にある環境因や精神発達の観点から考察を加えた.子どもは環境に依存して生きているため,養育環境,学校,友人や異性関係は自殺行動にも大きく関与し,児童虐待や,健康な自己愛の発達の阻害,あるいは精神疾患を持つことは,子どもの自殺行動の危険を考慮すべき要因と思われた.


救命救急センターから見た自殺 ―心的外傷体験を持つ症例を中心に―

西 大輔*1,2・松岡 豊*1,2
*1 独立行政法人国立病院機構災害医療センター
*2 国立精神・神経センター精神保健研究所

救急医療機関には多数の自傷および自殺未遂者が搬送される.本稿では心的外傷を経験した大量服薬の1症例を呈示し,年間約250人の自傷および自殺未遂者が搬送される救急医療機関の無床精神科という環境における精神科的対応の実情について述べた.救急医療機関での面接では,自傷と自殺の異同を理解した上で,中立性を保つことと,自殺企図に至る具体的状況を行動記述的に聴取することが重要と考えられる.また,一部の自殺未遂者には自殺企図後に治療の転機につながるような変化が起きうることについても付言した.ただ,現状では病棟や人的資源の不足から十分な精神科的介入を行えない施設が少なくないため,救急医療機関における精神科医療体制のさらなる整備などを通じて,自傷および自殺未遂者への介入の質を高めていくことが必要である.


岩手県精神保健福祉センターにおける自殺者遺族交流会支援方法の検討

黒澤 美枝*1・井上 綾子*2・小館 恭子*2
長澤由美子*1・豊間根美恵*1・小野田敏行*2
*1 岩手県精神保健福祉センター
*2 岩手医科大学衛生学公衆衛生学講座

地域行政による自殺者遺族支援方法の検討を目的として,岩手県精神保健福祉センターで実施した自死遺族相談窓口の受付記録表および自殺者遺族交流会の活動記録表の資料レビューと,交流会参加者へのプログラムに関する質問紙調査を行った.57人の窓口利用と25人の会参加があり,交流会参加者の評価は肯定的であった.相談体制を整備した上での遺族交流会の実施は,適切な機関への振り分けや,非対象者への対応が可能となり,ボランティア確保の面でプラスであった.遺族同士の交流機会(情報提供,ミニレクチャー,分かち合い)の提供を通じた自助会立ち上げは,行政担当者にとっては現実的に取り組みやすい手法と考えられた.


【原著】養育者の対人関係の持ち方が虐待傾向に及ぼす影響-子ども虐待予防に必要な視点を考える

酒井佐枝子*1・2・加藤 寛*1
*1 兵庫県こころのケアセンター
*2 大阪大学大学院医学系研究科

子ども虐待は,養育者が持つ子どもおよび家族との関係だけでなく,社会との相互関係のあり方の問題としてとらえることができる.本研究は,養育者の対人関係の持ち方に焦点をあて,それが虐待傾向にどのような影響があるかを明らかにすることを目的とした.1歳6カ月児健康診査を受診予定の養育者を対象に自記式質問紙調査を実施し,有効回答の中の母親946名を解析の対象とした.階層的重回帰分析の結果,虐待傾向尺度の「認知の問題」では「関係不安」において有意な正の関連を示し,「体罰叱責傾向」では子どもの出生順位および「関係不安」において有意な正の関連を示したが,育児サポートの有無はいずれの虐待傾向尺度の下位因子とも関連を示さなかった.対人関係全般に対する「関係不安」が,特定のケアの対象である子どもへの養育行動に影響を及ぼすことが示唆された.このことから,養育者の対人関係の持ち方に配慮した支援の必要性が考えられた.


【原著】 PTSD患者に対するparoxetine使用の現状 ―多施設間後方視調査―

大江美佐里*1・前田 正治*1・金 吉晴*2

*1 久留米大学医学部精神神経科学教室
*2 国立精神・神経センター精神保健研究所

Paroxetineを薬物療法に用いた11施設のPTSD患者185人を対象に,診療録の情報を用いた後方視調査を行った.女性が160人と全体の86.5%を占め,平均年齢は30.9歳であった.PTSDの罹病期間は平均48.4カ月であった.向精神薬を併用していた患者は160人で,抗不安薬が全症例の58.4%に使用され最も使用頻度が高かったが,抗精神病薬の併用も28.1%認めた.トラウマ体験別に抗精神病薬の投与割合を見ると,性暴力被害など加害被害関係を認める場合に投与割合が高い傾向が見られた.paroxetineは56.2%の症例で効果ありと判定された.副作用としては,嘔気が最も頻度が高かった.ロジスティック回帰分析により,抗精神病薬を併用することが効果不十分と関連することが示唆された.今回の結果はすでに発表されているPTSDの治療ガイドラインと実際の処方行動に違いがあることを示すものである.


【原著】 外傷後ストレス障害型としての血管迷走神経反応様症状を伴うもうろう状態

音田 雅紀

本稿では激情型とされる殺人,暴力行為の研究を行った.検討例は加害行為直前に見当識を失い,失神の前駆症状である霧視や眼前暗黒感を呈していた.その状況や症状から,恐怖による血管迷走神経反応様症状を伴うもうろう状態の存在が示唆された.
本症例を元に,類似の症例を日本の刑事裁判資料から2例同定した.計4例は,(1)加害者は被害者に襲われ,恐怖などを伴う場面(光景や行為)に遭遇した直後に見当識を喪失していた,(2)呼びかけなどの音に続いて意識清明となった,(3)もうろう状態の持続時間が短かった,などの共通点から血管迷走神経反応の関与が示唆された.
加害者は,上記以外の状況でのもうろう状態の病歴はなかったが,児童虐待やドメスティック・バイオレンスの外傷体験があり,この外傷記憶(状況,恐怖,復讐幻想)が,口論や被害者による暴力(再被害化)によって連想的に想起され,一連の生理的反応と加害行為を生起させたと示唆された.

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