第7巻第2号(2009年9月発行)抄録集

公開日 2009年09月01日

巻頭言

 原爆のトラウマを扱った名作に,こうの史代の『夕凪の街 桜の国(双葉社,2004)』というマンガがある.
 広島の被爆者である主人公,皆実の言葉はとても衝撃的だ.

ぜんたい この街の人は 不自然だ
誰もあの事を言わない
いまだにわけが わからないのだ
わかっているの「死ねばいい」と
誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ(p.15~16)

 他の人からどう思われたかによって,自分のアイデンティティを規定する必要はない.「死ねばいいい」と思われたことを,自分のほうに引き付ける必要はない.「死ねばいい」と思われたからといって,その通り死ぬ必要ももちろんない.それは相手の側の人間性の欠如だと捉え,相手に返していけばいい.理屈ではそうである.
 けれど,人は関係の中で生きている.だからこそ皆実は,恋人となった人からの「生きとってくれてありがとうな」(p.29)という言葉で,深く救われる.
 皮肉なのは,そもそも原爆を落とした側は,皆実と何の関係性ももとうとしていないということ,死ねばいい「相手」とさえ認識していないということである.後遺症が出て,死の床に横たわる皆実は心のなかでつぶやく.

嬉しい?
十年経ったけど 原爆を落とした人はわたしを見て
「やった! またひとり殺せた」
とちゃんと思うてくれとる?(p.33)

 皆実は,関係性をもとうとしない「相手」に話しかけ,関係をもつことを迫る.それは無駄なことだろうか,非現実的な願いであり,個の確立していない「女・子ども」の思考なのだろうか.
 日本において「心の傷」や「トラウマ」,「PTSD」といった言葉が一般に知られるようになったって十数年.本学会ができて7年.
 私たちは,皆実のつぶやきを病理化せずに包摂できるような,理論や知見をもちつつあるだろうか.それとも,悲惨な出来事に遭遇してもPTSDにならないよう,個人の脆弱性を減らすには,もちろんそれも大事なことではあると思う.ただ,生れてから死ぬまでずっと,人は関係の中で生きているということを,忘れ続けずにいたい.

一橋大学大学院社会学研究科
宮地尚子

【特集 トラウマ概念の再考/現在におけるトラウマ概念】

DSM-Ⅲまでのトラウマ概念―「神経症」の時代―

森 茂起
甲南大学

トラウマ的事象に起因する精神医学的ないし心理的症状が理解されていった過程を,19世紀後半からほぼ第一次世界大戦終結時まで振り返り,その間のトラウマ概念の推移をたどった.「鉄道脊椎」から「外傷神経症」への概念の推移と,ヒステリー研究に発する「外傷性記憶」の概念によって,19世紀末までに現在のトラウマ概念の原形が生まれた.その過程に重なって,戦争時の兵士の症状の認識が,19世紀半ばの「過敏性心臓」「兵士心臓」などにはじまり,第一次世界大戦時の「シェルショック」を経過して,ヒステリー,神経衰弱との異同の議論も伴いながら,「戦争神経症」の概念が一般化していった.大戦下では多様な理解と治療論が展開され,現在のトラウマ研究の多くの主題が出揃っていた.この時代の「神経症」概念の多用に,心因論としてのトラウマ概念の展開と,生物学的メカニズム理解に関する時代的制約が関わっていたと思われる.


 ストレスからみたトラウマ

杉 晴夫
帝京大学医学部生理学教室

ハンス・セリエが1936年に発表した,ストレスに関する最初の論文の表題は「各種有害原因によって引き起こされた症候群」であった.彼は実験動物に種々の有害作用を与えると,非特異的な反応がみられることを発見し,ストレス学説を打ち立てた.現在「ストレス」という言葉は,われわれの精神的ストレスを意味し,完全に日常語となっている.しかしセリエ自身が解明したのは,実験動物に過酷な有害作用を与え続けることによって起こる,内分泌系によるストレス反応であった.セリエの発見した非特異的反応には,内分泌系による反応と自律神経系の反応の二つが含まれていたが,セリエはもっぱら外部から加えられる物理的ストレスに対して動物の生命を守る,合目的性のある内分泌系のストレス反応機構の解明に努力を傾注した.しかし,野生動物の生存にとって重要な,ストレスに対する内分泌系の反応は,医療機関の完備したわれわれ人類の文明社会においては必ずしも重要ではない.われわれにとって重要かつ深刻な問題は,精神的ストレスによる自律神経系の失調である.この研究分野はセリエがやり残した仕事であり,現在も殆ど未開拓のまま残されている.ここではまずセリエが解明した,実験動物における内分泌系のストレス反応が,われわれの精神的ストレスに対しどのような意味を持つかを考察し,次いで精神的ストレスがいかにして自律神経系の失調を引き起こすかを,筆者の主観を交えて論議したい.なお筆者はこの分野の専門家ではないので,原著論文の引用は行わないのでご了承いただきたい.


 21世紀グローバル・コミュニティの不安-PTSDの系譜学に人文科学が寄与できること

下河辺美知子
成蹊大学文学部

PTSDをめぐるわれわれの活動のなかで,治療,研究,政策といった場面で言語の果たす機能について考察する.精神医学の言説は,言語とその言及対象との間の一対一の関係を軸にしているが,これに対して文学の言語は言及対象を語りの効果によって作り出す機能をもつ.トラウマ記憶を言語によって把握し個人の/共同体の記憶に登録することの不可能性への洞察を歴史的に概観し,PTSD系譜の特異性をつきとめる.S. Freud,A. Young,J. Hermanといった精神医学の研究者たちの仕事に,S. Felman,C. Caruthら批評家の批評理論をつなぐとき,そこに見えてくるのは文学テクストのもつ可能性である.フロイトの不安に関する論考をもとに自我と不安との関連を浮上させ,21世紀社会の文脈のなかでのPTSDの現実を言語で把握し,言語で乗り越える可能性と不可能性を検討した.


DSMにおけるPTSD概念-最近の批判論を考える

前田正治,大江美佐里
久留米大学医学部精神神経科学教室

DSM-Ⅲ以降(1980年)に登場したPTSD診断は,臨床家や研究者に大きなインパクトを与えた一方で,さまざまな批判が寄せられてきた.なかでもPTSD診断の前提となる体験イベントの定義である基準Aに関する批判,あるいはPTSD診断の妥当性をめぐる批判は際立って多い.本論では,最近になって寄せられたこれらの批判を俯瞰し,その論点の整理を試みた.基準A項目をめぐっては,非外傷性ストレスによって引き起こされるPTSD症状をめぐる問題,基準A体験の広がりに関する批判等がある.また診断妥当性に関しては,併存疾患の多さや疾患判別性の問題等がある.PTSD概念は他の不安障害の疾患概念に比べて圧倒的に研究論文数が増え,またその概念も洗練されてきた一方で,将来のDSM-Ⅴ作成にむけて上述のような批判にこたえる必要があると考えられる


心的外傷とレジリエンスの概念

岡野憲一郎
国際医療福祉大学大学院

レジリエンスの概念は外傷関連障害の文献で近年多く扱われるようになってきている.過去においては,レジリエンスは単に脆弱性のネガとか病理の不在としてのみ考えられ,私たちの精神的な健康度への貢献はごくわずかで間接的なものとしてしか扱われなかった.しかし最近では,レジリエンスは深刻なストレスの際にPTSDの発症を防ぐ鍵となる因子であると認識されるようになってきている.最初はレジリエンスは唯一のパラメーターにより構成されていると考えられていたが,実際は生まれつきの性質,遺伝的な影響,エピジェネティックな変化やその他の環境因という複数のファクターからなることがわかってきている.レジリエンスに関する研究は,外傷をこうむった人の自然治癒過程のメカニズムをさらに知る上で役立つ.治療者はその自然治癒過程に対していたずらに治療的な介入を行うのではなく,それを第一に守り,保護するべきであろう.


青年期前期における慢性反復性トラウマによる対人関係機能不全尺度改訂版の妥当性の検討

出野美那子
お茶の水女子大学人間文化創世科学研究科研究院

青年期前期における慢性反復性トラウマによる対人関係機能不全尺度の改訂版を作成し,妥当性を検討することを目的として,児童養護施設/一般家庭で生活する中学生75名/110名を対象とし,担当施設職員29名,担任教諭18名に回答を依頼した.「攻撃/衝動的行動」「脅えと不安」「回避と孤立」「愛着行動の希求と回避」の4因子23項目からなる対人関係機能不全尺度が作成された.作成した尺度の収束的/弁別的妥当性はCBCL下位尺度との相関分析,基準関連妥当性は虐待の有無による得点差によって検討し,尺度の特徴を把握するために虐待の種別による差異について検討した.その結果,弁別的妥当性は低かったものの,収束的妥当性が確認された.また虐待あり群の尺度得点が有意に高く,基準関連妥当性が確認された.すなわち,一定の信頼性,妥当性を備えた対人関係機能不全尺度が作成された.


岩手県指定救急機関における自殺未遂者の実態調査

黒澤美枝*1,前川貴美子*1,小野田敏行*2,大塚耕太郎*3,酒井明夫*3
*1 岩手県精神保健福祉センター
*2 岩手医科大学衛生学公衆衛生学講座
*3 岩手医科大学神経精神科学講座

岩手県内の一次,二次,三次救急告示医療施設全57カ所に対して自殺未遂者の有無や受診状況に関して調査した.回答のあった救急告知医療機関52カ所のうち平成19年度に自殺未遂者が受診したと回答した機関は35(67%)であり,自殺未遂者の受診は延べ597件であった.内訳は女性は70%,年代では20代が33%で最も多かった.自殺企図の手段で上位にあがったものは,医薬品の過量服薬が50%,刃器29%であった.過去の自殺未遂歴については,常勤精神科医が在籍していない医療機関では,不明であると回答した割合が74%と高かった.現場で救命医療に従事する医師,看護師の過半数が,自殺未遂者の治療に困難や怒りを感じていた.把握しえた未遂例は背景が十分に把握されていない可能性があり,専門機関との連携などを含めた対策が今後必要と思われた.

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