第13巻第2号(2015年12月発行)抄録集

公開日 2015年12月25日

巻頭言

―境界を越え,「トラウマ臨床」を「あたりまえの臨床」に―

 2011年,岩手県沿岸.津波によって一部は流され,一部は残ったそのくっきりした境界線を見ながら私は特別の感慨をもっていた.それはまるでトラウマ体験によって被害者の心のうちに生じる自他の間の見えない大きな隔たりが,社会のなかで可視化されたかのように感じられたのだ.トラウマ体験は,人や共同体に傷をもたらす一方,学びや成長をももたらす.この大きな犠牲は,この国に何をもたらすのであろうか,と.
 それから5年が過ぎようとしている今,偶然に警察と仕事をすることになったサバイバーセラピストが,見いだされ,JSTSSに育てられて今があると自己規定している私は,JSTSSの一員として,誰かを育てられていただろうかと反省する.時代の流れとして必然起きてきた治療のコンポーネント化と検証によるエビデンスを求める流れのなかで,技法の優劣に関する論議が主流を成していると「感じられた」時期に,私は学会を少し離れた.私にとって回復とは,息をするように自然なことであり,技法は回復の後押しをする役に立つ道具にすぎなかった.一方,後に,選びに選んだある技法を推進する立場に立ったときに,自分が若干斜めにみていたものと同じ轍を踏んでいると感じざるを得ない瞬間も経験したのである.
 すなわちあるグループがドミナントなものに流れると,周縁を拾うことはできなくなる.一方周縁=多様性を主張すれば,推進力は削がれる.トラウマ臨床はその主題からもパワーとの関係がつきものである.どれほど自覚的に努力をしても,歴史は繰り返され,「トラウマ臨床」は一般臨床と異なる範疇に未だ留めおかれている.
 「トラウマ臨床」を「あたりまえの臨床」にするために―これらの状況を解くキーワードは「現場」,「先達に聞け」,そして「越境」である.現場はひとつであり何によっても分断されない.第14回大会の岩井大会長の打ち出した方向性や,Schnyder先生のエビデンスある心理療法を統合的にみるテーマは,ある世界的な流れに対して先達の示したひとつの解決のかたちであろう.そして同時開催されたISTSSのMYMに訪れたメンバーのより貧しく,より資源の少ない現場を支援するための越境的な実践から実った研究に私は希望をもった.
 岩手で見えたありありとした境界線.本来私たちは誰もが,いつもは見えないこの一線のむこうに追いやられる犠牲者になるかもしれない儚い存在である.だからこそ,私たちは,この一線をお互いに行き来して,その双方の存在が私たち全体にとって,どれほど貴重なのかということを互いに知り,わかちあい,交流することができる.
 いらないものを見極め,必要なもの,新しいものを共に創り上げていこう.

2015年11月
こころとからだ・光の花クリニック
白川 美也子

【特集 トラウマと脳科学】

特集にあたって

金 吉晴

 PTSDの重要な症状はトラウマの再体験である.そのために,PTSDに関わるときには,疾患としてのPTSDを扱っているのか,トラウマ体験そのものの意味内容に引き込まれているのかの区別がわかりにくくなることがある.言うまでもなくトラウマを体験することとPTSDになることとは違う.慢性的PTSDはトラウマ体験からの回復が行き詰まった状態であり,トラウマ記憶がその人の精神や行動に対して,あるいは精神や行動がトラウマ記憶に対して,どのように位置づけられているのかを考える必要がある.
 そうした位置づけの背景とも結果ともなっている要因には,本人の生活環境,トラウマ前後の体験,性格,価値観などがあるが,脳科学的なメカニズムもそうした要因の1つである.
 残念ながら脳神経科学の所見は,日常の臨床の指標となるほどにはまだ進歩していない.今のところは多くの解釈を助けるための可能性を提供するにすぎないが,すでにそうした可能性の中には,臨床上のヒントがいくつも隠れている.まず考えなくてはならないのは,トラウマという体験の意味内容とは別に,PTSDは重度のストレス反応だということである.このことはストレスホルモンであるコルチゾールの分泌と制御,それに伴う遺伝子発現,またストレスの影響を受けやすい大脳辺縁系の脳画像などの所見から推定することができる.
 トラウマ記憶そのものの性質,強化,消去(上書き)の研究はマウスのレベルではかなり進んできた.ワーキングメモリーと長期記憶,海馬依存記憶と皮質記憶などの重要な鍵概念も定着してきている.簡単に言うとトラウマ記憶は長期記憶としてはきわめて不安定であり,容易に海馬依存性記憶となり,ありありとしたイメージや感情を引き起こす.しかしそこには大きな治療可能性がある.海馬依存性記憶は書き換えが容易であり,安全,安心などのポジティブな意味を受け取って変容し,トラウマの長期記憶を上書きすることができると考えられている.病理だと考えられたことの中に回復の鍵があるというのは,遺伝子研究でも示唆されている.FKBP5という遺伝子に関する異常は,累積的トラウマによるPTSDの発症率を高めるが,逆に精神療法への治療反応も高める.また環境が安定している場合には良好な精神健康につながるとされる.つまりこの遺伝子はPTSDという病気を決定しているのではなく,ネガティブであれポジティブであれ,環境からの影響を受けやすいということに関連していると思われる.
 私自身,持続エクスポージャー療法を行うことが多いが,患者がトラウマ記憶と苦痛な感情を思い出しているときに,実は長期記憶ではトラウマ記憶が減少しており,海馬において苦痛な体験を転換する自由度が高まっているのだと考えている.また実際に治療はそのようになることが多い.
 本特集が,臨床家にとっての有益な治療的スキーマを産み出す一助になることを期待している.

脳科学から見た児童虐待

友田 明美

被虐待児たちが受けるトラウマの大きさは計り知れない.人生の早期に幼い子どもがさらされた,想像を超える恐怖と悲しみの虐待体験は,子どもの人格形成に深刻な影響を与えずにはおかないことが一般社会にも認知されてきた.子どもたちは癒やされることのない深いトラウマを抱えたまま,さまざまな困難が待ち受けている人生に立ち向かわなければならない.近年,ヒトの脳が経験によって再構築されるように進化してきたことを物語るエビデンスとして,性的虐待による視覚野の萎縮,暴言虐待による聴覚野の拡大,両親間のDV目撃による視覚野の萎縮,激しい体罰による前頭前野の萎縮などが,MRIを用いた脳画像研究からわかってきた.また,反応性アタッチメント障害を含む愛着形成障害についても,その障害およびその心的機能の問題に関与する脳構造や脳機能異常が明らかになってきたことで,同疾患をめぐる病態の把握,また診断・治療法の開発につながることが期待される.

PTSDにおける脳機能画像研究

荒川 亮介

PTSDの脳機能画像研究はさまざまな測定手法で行われており,その中でもPETやSPECTは特定の受容体やトランスポーター,酵素等に高い親和性と選択性を有する放射性薬剤を用いることで,その分子の定量を行うことが可能である.これまでに,セロトニン1A受容体,セロトニン1B受容体,セロトニントランスポーター,ノルエピネフリントランスポーター,ドーパミントランスポーターのモノアミン系,ベンゾジアゼピン受容体についての報告がなされている.近年では,カンナビノイド受容体,オピオイド受容体についての報告もなされている.しかし,メタアナリシスが行われている統合失調症やうつ病等の疾患に比べると,まだその数は少なく,病態の経過を検討したものや治療前後で比較したものもない.PETやSPECTは生体脳での機能を分子という点から的確に捉えることができるという利点を生かした研究の継続が望まれる.

喜田  聡

トラウマ記憶は心的外傷後ストレス障害(PTSD)の原因となる.トラウマ記憶の代表例である恐怖記憶は,一種の恐怖条件付け記憶であり,ヒトのみならず,動物にまでに観察される.一方,恐怖記憶はエピソード記憶の一種であり,記憶形成および貯蔵のコントロールには海馬が中心的な役割を果たしている.本稿では,恐怖記憶の制御における海馬の役割を含め,恐怖記憶の制御プロセス群とその制御機構を総説する.さらに,ヒトと動物の間での恐怖記憶制御機構の類似性から,恐怖記憶制御基盤の解明がPTSDの治療方法に貢献できると注目されており,恐怖記憶制御基盤に基づいたPTSD治療方法開発への試みも説明する.

PTSDの遺伝研究

堀  弘明

心的外傷後ストレス障害(posttraumatic stress disorder:PTSD)は,トラウマ体験を経験することで発症する精神疾患であるが,この発症には遺伝的な要因が関与していることが示されている.PTSDに遺伝性があるといっても,単一の遺伝子の異常ではなく,効果の比較的小さな多くの遺伝子の関与が想定されている.この10年ほどの間,PTSDの発症に関連する遺伝子を特定するための研究が精力的に進められている.現時点では決定的なエビデンスは見出されていないものの,近年研究手法が飛躍的に洗練されてきており,PTSDの遺伝研究に対する期待が高まっている.

本稿では,ヒトを対象としたPTSDの遺伝研究について,最近のエビデンスを中心に概観する.精神科遺伝学の代表的な研究手法であるケースコントロール関連研究に焦点を当て,遺伝-環境相互作用を検討した研究や,遺伝子多型と治療反応性の関連についての研究も紹介している.

東日本大震災の被災自治体職員の心的外傷後ストレス反応

桑原 裕子・髙橋 幸子・松井  豊

東日本大震災で被災した宮城県の3自治体(内陸部1自治体・沿岸部2自治体)に震災以前から勤務する全職員を対象に,心的外傷後ストレス症状に影響を及ぼす要因を検討する質問紙調査を行った.有効回答は615名であった.心的外傷後ストレス症状の強弱に影響を及ぼす要因として,被災体験の他,発災時の業務体験,発災時から調査時までの業務状況を尋ねた.発災から1年4カ月後の心的外傷後ストレス症状は,改訂出来事インパクト尺度(IES-R)を用いた.その結果,ハイリスク者(25点以上)は,全体の26.8%であり,沿岸部の職員ではハイリスク者が35.0%に達した.心的外傷後ストレス症状に与える影響を重回帰分析で検討した結果,職員の被災体験や業務体験(共感疲労)は,心的外傷後ストレス症状に影響を与えていた.また,発災時から続く多忙感は,心的外傷後ストレス症状に影響を与えていた.

メタ分析による解離と外傷体験における関連性の再検討:解離を引き起こしやすい外傷体験とは何か

池田 龍也・岡本 祐子

どのような出来事が解離をもたらすのか,という点については,必ずしも明らかでない.Dalenbergら14)はメタ分析によって解離と外傷体験の関連性を検討しているが,文献収集時点で除外されている研究もあり,知見を更新する必要があると考えられた.そこで本研究では,知見の更新と,どのような出来事がどの程度解離と関連があるのかを検討することを目的とした.メタ分析の結果,全体でr = .29であり,同時に高い異質性が確認された(I2 = 82%).下位集団分析の結果,これまで解離の原因とされてきた性的虐待や幼少期の外傷体験に,中程度の異質性がみとめられた.得られた結果からは解離は外傷体験と関連しているものの,特定の出来事だけでは解離を説明できないことが明らかとなった.これまでの先行研究では,出来事と解離の関連性を検討することが多かったが,今後は媒介要因を検討し,解離を維持している要因を明らかにする必要があるだろう.

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