第17巻第2号(2019年12月発刊)抄録集

公開日 2020年05月26日

巻頭言

 近年の精神医学は、DSMやICDに代表される診断体系によって、診断カテゴリーを細かく分類し、そのカテゴリーの周辺をそぎ落した”中核群”を対象に研究を行ってきた。その成果は、診断カテゴリーの”平均的”な患者に対する治療ガイドラインの整備を促し、科学的なエビデンスに基づく精神医療の発展を後押ししてきた。こうした流れは、トラウマ・ストレスが関連する精神疾患の領域にも多くの有益な成果をもたらしてくれた。

 これに対し、同じ診断でも治療反応性には個人差があることから、一人ひとりに最適な治療法を選択する医療として、personalized medicine(PM)に注目が集まっている。個別化医療と訳されるようだが、主にがん治療の領域でゲノムなどの生体情報を利用する研究などが進んでいる。こうした流れは、精神医学にも影響を及ぼしており、人工知能など新たなテクノロジーを精神疾患に応用する研究やゲノム研究などに期待が高まっている。

 しかし、精神疾患の異種性は身体疾患以上に高く、さらに患者の文化・歴史・社会的背景、価値観、知識・好み、信念、家庭状況などさまざまな心理社会的要因が臨床的な意思決定に関与する。実際の臨床現場では、理想的な”中核群”への対応だけではなく、科学やエビデンスが”未だ”及んでない領域、あるいはガイドラインやマニュアルには具体的に記されていない事柄への対応を求められることは多い。日々の臨床でも、トラウマを抱える患者の治療は、試行錯誤の連続である。

 このように一人ひとりの患者にpersonalizedすることは、精神医療が臨床のなかで長らく行ってきたことである。これを科学的なエビデンスに基づいて実践できる領域を広げる形でPMが発展していくことには大いに期待したい。ただし、精神医学には科学やエビデンスがカバーできない領域が常にあることも忘れてはいけない。PMが注目されるなか、こうした科学が及びがたい領域の重要性についても再認識し、これまで以上に明示的な形でこれを取り上げ、議論を重ね、経験を共有することが、真のPMの実現には必要なことではないかと思う。

                                                                                                                                                                                                                                                              2019年10月

                                                東北大学大学院医学系研究科精神神経学分野

                                                               松本 和紀

特集 トラウマとジェンダー2

解離性同一性障害とジェンダー

宮地 尚子

本稿ではトラウマとジェンダーと解離の関係について論じる。はじめに、解離と解離性同一性障害(DID)の概念について簡単に整理する。次に男性のDIDの2事例を紹介する。考察では2事例を比較し、受診過程、性被害、治療という項目に分けて記述する。両事例は、家庭内で身体的・心理的な虐待やネグレクトがあり、家族の保護機能が十分ではなかったこと、、また、家庭外で幼児期に性被害を受けたことが共通していた。だが、受診の様子や内的世界のもち方、治療関係などは異なっており、それらをジェンダーの視点から分析する。最後に、ジェンダー・ディスフォリア(GD)と治療者側のジェンダー・センシティビティについて議論する。

非行・犯罪とジェンダー ートラウマ対処における性差からの検討ー

中島 啓之

非行・犯罪の性差に関し、少年院で実施された被害体験調査の結果に基づいて考察した。調査では、非行少年は多くの被害を経験しているが、女子非行少年は、被害の後にさまざまなトラウマへの対処行動を取っているのに対し、男子非行少年は、トラウマに対し対処できていない傾向が認められた。さらに、これらの結果について、女子少年では、虐待的な環境から適切に逃避できないことが非行につながりやすいこと、男子少年では、男らしさを証明する手立てとして反社会的行為に及びやすいことを示した。また、トラウマへの対処の困難が、非行や犯罪の大きな要因であり、矯正施設において加害者のトラウマを扱う必要があること、その際には、イマジナリーな領域(imaginary Domain)3)を保障することが重要であること、ただし、その過程には困難が伴うことについて考察した。

子どもの性被害 -「自画撮り被害」についてー

櫻井 鼓

児童ポルノ事犯は、児童の性的搾取の中の1つの犯罪行為である。近年では、インターネットの普及によりSNSに起因する子どもの性被害が増えており、中でも児童ポルノによる被害児童数の増加は著しい。児童ポルノの被害のうち、「だまされたり、脅かされてりして児童が自分の裸体を撮影させられた上、メール等で送らされる形態の被害」である。「自画撮り被害」の占める割合は約4割で最多となっており、被害防止のための手立てを打つことは急務となっている。海外では、自画撮り被害についてはsextingの一種として研究されており、アメリカでは2000年代後半から実態調査が行われてきた。最近の研究では、児童が自らの性的画像等を送信する要因について、個人要因、ネット関連要因、環境要因等からの研究が進められている。わが国においても、保護者、教師、専門家が自画撮り被害についての実態を知るとともに、被害防止のための実証研究が進められていくことが望まれる。

LGBTQとトラウマ・被害体験

石丸 径一郎

日本でLBGTという言葉が知られるようになって10年ほどが経つ。以前から、LGBTQを含む性的マイノリティの、言語的・身体的な対人暴力被害体験の多さは指摘されている。本稿では、ここ10年程度の、LGBTQとトラウマ・被害体験についての研究をいくつか紹介する。LGBTQはヘイトクライム(憎悪による暴力犯罪)のターゲットになりうる集団であり、海外では多数の殺人事件が起きており、日本でもそのような例がある。ただし、治安の良い日本では、そのようなトラウマとなりうる深刻な暴力犯罪は少なく、それよりも言語的な暴力や日常的な疎外体験など中程度のマイノリティ・ストレスが広範に体験されている可能性がある。

戦争のトラウマとジェンダー・人種・階級 -日本軍における「戦争神経症」を事例にー

中村 江里

近代の総力戦は、男性の身体および精神の脆弱性を露呈させ、「男のヒステリー」である戦争神経症が多数出現したという点で、大きなインパクトを持っていた。本稿では、日中戦争が全面化した1937年以降、本格的な戦争神経症対策に取り組んだ日本軍を事例に、戦争神経症の医学的解釈に、ジェンダーと人種・階級が複合的に及ぼした影響を考察する。戦争神経症は、勇敢さや自己抑制と結びつけられた軍事主義的な男らしさに支えられた国力の危機を象徴する存在であった。そのため、戦時下では戦争神経症をジェンダー化・人種化し、「敵」の弱さと日本兵の強さが対照的に強調された。実際の診療現場では、階級とジェンダーによる差異化が複合的に行われた、戦争神経症の主な病名である「ヒステリー」やその代用病名である「臓躁病」は、ほとんどの場合兵士に対して用いられ、しばしば女性化された、一方「神経衰弱」は、よりスティグマの少ない病名として将校に対して積極的に用いられた。

カタストロフ表象の変遷、およびそれにともなうジェンダー表象の変遷?-2010年代深夜アニメ作品の学的解釈に向けてのー研究序説ー

川口 茂雄

2006年ごろに日本の深夜アニメ作品に質的飛躍が生じ、そして2011年前後に『魔法少女まどか☆マギカ』や『Steins;Gate』等のきわめて高度な傑作が出現したという見解は、論者の間で徐々に共有されつつあるものである。しかしながら、20世紀初頭に登場したキュビズム絵画が多くの同時代人からは拒絶・誤解され、あるいは嘲笑されたように、これらのアニメ作品が有する構造や表現、批評性の複雑さの理解はまだこれからの課題であろう。文学理論化Frank Kermodeが『The Sense of an Ending』の1999年に新しく記したエピローグで述べたように、キューバ危機はカタストロフというものの表象をそれ以前とは異なるものに変えた。同様に、リーマンショックの以後にあって、ジェンダーと働く女性の表象の布置は、それ以前と変わらぬままにはとどまりえなかった。

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