第19巻第1号(2021年7月発刊)抄録集

公開日 2022年02月01日

巻頭言

 依然として新型コロナウィルス感染症の警戒は続いているが、2021年春にはワクチンの普及が国内で始まった.今は、誰もが感染症に罹患する可能性のある「当事者」であり、「身近な人を突然喪うこと」も可能性として想定される現実に生きている.

 一方、この3月には2011年の東日本大震災から10年が経過し、例年よりもさまざまな報道が多くなされた.筆者のクライエントの中には、このコロナ禍で外出できない中、津波や被災に関わる映像を再び見るのが辛く大変だったが、好きな音楽を聞くことで心慰められたという声もあった.

筆者は緊急事態宣言中にBill Withersの『Lean on me (僕を頼って)』という曲をよく聞いていた.

彼の、ゆったりと明るい、優しい声が沁みるいい歌である.

     ’’Sometimes in our lives

                       We all have pain

                       We all have sorrow

                       But if we are wise

                       We know that there's always tomorrow

                       Lean on me,when you're not strong

                       And I'll be your friend・・・・・・’’

 「アート」は、表現する人にも鑑賞する人にも、多くの栄養を届ける.今号の特集の「トラウマからの回復におけるアートの役割」では、その好例があることだろう.

 私たちはコロナ禍において生活範囲が狭まり、人と会えないことを不安に思う一方、ステイホーム中に家族とじっくり過ごし、リモートである程度仕事ができることも体験した.実は多くの見過ごしていたことに気づいたともいえる.そんな今は、小さな納得、安心を糧に毎日を何とか過ごしていくことにも大きな意味があるだろう.「あいまいな喪失理論」の提唱者であるBoss,P.の言う「その人なりのレジリエンスを保ちつつ、あいまいな喪失に対処する」ことにも通ずる.身を縮めて熟考する今だからこそ、トラウマティック・ストレス領域での知見が多くの人の回復に役立つことを信じて待ちたい.

2021年3月

国際医療福祉大学赤坂心理・医療福祉マネジメント学部

白井 明美

【特集 トラウマからの回復におけるアートの役割―コミュニティケアを中心に】

東日本大震災後のコミュニティアートの試み―生きることを肯定するために

吉川 由美
まちに秘められたさまざまな歴史やエピソードを掘り起こし,切り紙にして可視化する「南三陸みんなのきりこプロジェクト」.2010年夏に始められたまちおこしのプロジェクトは,震災で何もかもを失った人々の記憶を支える依り代となり,物言わぬコミュニケーションツールとなって,人々を支えた.記憶は亡き人とともに生きるための力にもなるが,恐怖の呪縛ともなる.あるときは悲しみを深め,あるときは他者とのつながりを確かめながら記憶を辿ることで,人々は回復し,前向きな視座を得ることができる.人生の中で輝きを放つ記憶の共有と自らの人生を認め讃えてくれる他者の獲得は,人に生きる力を与えてくれる.リレーショナルアートという見返りを求めないギフトが,新しい視座をもたらし,人の記憶にささやかな明かりを灯す.
 

こころの健康問題からの回復とアート,コミュニティのつながり

竹島  正
精神疾患(こころの健康問題)を経験した当事者が絵画などの制作をおこなうことが本人のリカバリーに役立ち,制作に向かう生き方と作品が地域共生や社会的包摂に向けてのメッセージとなる場合がある.その一例として〈造形教室〉,クロマニンゲン展,全国精神保健福祉連絡協議会の活動を紹介した.また啓発冊子「やさしさのなかの,たくましい生き方」とそこに紹介された作家のひとりを紹介した.地域共生や社会的包摂は価値共創であり,そのパートナーとして,精神疾患(こころの健康問題)を経験してきた人たちの作品が存在する.さまざまな人生とそこから生み出される作品を尊重することは,地域共生と社会的包摂の実現に向けてのメッセージとなる.筆者が勤務する川崎市においては,すべての地域住民を対象にした地域包括ケアシステムを支える地域リハビリテーションの推進に取り組んでいること,そこにもメッセージとなる活動と作品があることを紹介した.
 

新型出生前診断がもたらすトラウマ,そのアートによる回復支援について

服部  正
アートが心の危機からの回復を支援する有効なツールになることはあるが,過度の期待をかけることは禁物である.アウトサイダー・アートの著名な作家のトラウマや,アートが果たした治癒的効果を強調することは,彼らを特別な存在として分離することになる.2010年代に始まる新型出生前診断は,ダウン症候群の当事者と家族に大きな心的ダメージを与えている.ダウン症のアーティストを特別な才能に恵まれた存在として賞賛することや,ダウン症のアーティストを通じて障害に対する理解を求めるという従来からの啓発の手法は,ダウン症のある人と共に生きる社会を目指し,ダウン症の子どもを産むことを選択できる社会の実現を目指すうえではあまり効果的ではない.それよりも,2019年にギズラン博士博物館で開催された「血液検査(bloedtest)」展のように,現代芸術家とダウン症の障害当事者が共同で創作活動を行う取り組みにこそ,有益な示唆がある.
 

阪神・淡路大震災後の美術作品とアートプロジェクト―いくつかの実践例

江上 ゆか
災害のトラウマ,アート,コミュニティという本特集のキーワードから連想される美術作品とはどのようなものか.2021年の現在では,アーティストが地域社会に入り被災当事者と協働するアートプロジェクトが筆頭に挙がるだろう.だが1995年の阪神・淡路大震災の時点では,日本のアートプロジェクトはまだ萌芽期にあった.たとえば災後の風景をとらえた絵画や写真など,旧来の形式の作品にも震災に関わる表現は数多くある.これらもトラウマ的事象へのアクチュアルな反応であり,それを可視化し社会に示した実践例と言えるだろう.被災地やその周辺の作家たちは,自らの立つ位置と震災からの距離を鋭く自覚しつつ,多様な表現を行った.当時,この地域にも芽生えていた社会と芸術をつなごうとする実践的活動は,結果的に震災に後押しされ,美術の分野でのボランティア活動や先駆的なアートプロジェクトも行われた.
 

近代の戦争記念碑・モニュメント

粟津 賢太
本稿は,日本と英国の両方の文脈における戦争記念碑の特徴と歴史的および社会学的意味を考察している.英国では,第一次世界大戦後にキリスト教のシンボルを明示しない近代的な追悼の形態が確立された.大英帝国の宗教的多様性を考えると,この方針は合理的であるように思われる.日露戦争中および戦後の日本では,村や町に戦没者の記念碑が数多く建てられたが,内務省は戦没者の記念碑建設については非常に抑圧的であり,また碑を非宗教的なものとして定義していた.この方針は1939年に政府によって大幅に変更され,戦没者の記念碑は単なる記念碑としてではなく,崇拝される対象と見なされるべきとされた.近代の戦争では,徴兵制により,農民を中心とした人々が戦場に動員され,人々が抱いていた伝統的,宗教的,迷信的な世界観が組み合わされ,戦争の民俗といいうるような新しい文化形態が形成されていった.
 

個人的ないし集合的なトラウマの癒しにアートと文化活動が果たす役割

オイゲン・コウ

・トラウマの理解

・癒しの過程

・トラウマのスティグマに対抗するアート

・くつろぎと自信回復のためのアート

・孤立に打ち勝つアート

・コミュニケーションのためのアート

・個人セラピーのためのアート

・集合的トラウマの癒しとしてのアート

 

 
 

【総説】

 

国際共同研究Global Collaboration Projectの成り立ちと発展

大江美佐里
国際トラウマティック・ストレス学会とその連携学会によって「国際共同研究の実験的試み」として2012年に始まったGlobal Collaboration Projectの活動とその後のGlobal Collaboration on Traumatic Stressへの発展的移行,現在実施されている研究課題の詳細について展望した.各研究分野の国際的な立ち位置を知り,文化差について検討することは外傷性ストレス研究の発展につながると考える.国際共同研究を実施する上での課題は言語にまつわるものの他,各国で異なる研究倫理規定や研究資金獲得およびデータ収集方法,オンライン会議における時差の問題など多岐にわたるが,国際的連携の醍醐味は,それまでの思考枠を越えた意見に接することで経験・認識の幅を広げられることにあると考える.今後多くの会員の参加を期待する.

 

 

 

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