第20巻第1号(2022年6月発刊)抄録集

公開日 2022年07月26日

巻頭言

 「いま、何が必要ですか? 私たちはどう支援したらいいでしょうか?」

 ある年の日本トラウマティック・ストレス学会で、緊急事態時における精神的な支援に関するプログラムが開かれていた。壇上では、被災地の中心で大きな責任を負って対応されていた方が、その経験を話していた。その演者に対して、冒頭の質問が上がった。演者はほとんど間髪空けず、言い切った。

 「想像力です」

 会場の後ろにいた私は、その言葉に撃たれた。当時、日本全土を震撼させたあの時期にあって、自分の想像力の乏しさ、何もできない無力感を、みじめに感じた。

 ”トラウマティック・ストレス”という言葉は、”人としての苦難”という意味だと思う。人としての苦難を少しでも理解し、安全をはかり、傷を癒し、治し、すこやかに生きる手立てを導くのが、この領域の使命だと考えている。

 人としての苦難は、いまも起こり続けている。何十年も前の出来事や、誰も知らない出来事から、いまも苦しむ人がいる。知り得ないところで、想像もつかない状況で、苦しみを抱えている人が、確かにいる。

 私たちができることのひとつは、それまでは想像できなかったことが想像できるように、情報を集め、観察し、考え、検証し、共有することだろう。集まっていく知識に基づき、目の前にいる人を見つめ、関わり、目の前にいない人を想像し、近づく。こうして、人の苦しみを少しでもどうにかできるよう、より確かな関わりを重ねていく。

 本学術誌や本学会は、そうした想像力と願いと情報を言葉にして、専門家が専門家を助け合う場所である。本学会を担ってきた専門家が、20年にわたって成し遂げて、継がれてきた仕事は、大変に重い。その営みには、悔しさ、怒り、痛みが伴っているだろう。そうした仕事に対して、ここで心よりの敬意と感謝を表する。そして、よりよい未来を想像し、作っていくこの営みをつなげられるよう、願い、祈り、行動していこうと思う。

2022年5月

国立精神・神経医療研究センター 認知行動療法センター

伊藤 正哉

【特集 PTSDの生物学的理解と治療開発】

 

MemantineによるPTSD治療―オープン試験結果より

金  吉晴
心的外傷後ストレス障害(PTSD)に対しては持続エクスポージャー療法(PE),paroxetine,sertralineが保険適用となっている.PEの効果量は1.5を超えており,極めて有効であるが,患者治療者の負担のために普及は困難である.そのために一般医療においては薬物療法を用いることが多いが,上記の2薬剤は効果量が小さく,効果量の大きな新規の薬物療法の開発が求められている.マウスを用いたトラウマ記憶の基礎研究ではN-methyl-D-aspartate受容体拮抗薬であるメマンチン(memantine)が恐怖記憶消去に有効であることが示されている.著者らはmemantineの民間人PTSDに対する有効性と安全性を検討するために,12週間の非盲検臨床試験を実施し,その結果を発表した.それによればPDS総得点の平均値はベースラインの32.3±9.7からエンドポイントでは12.2±7.9に有意に減少し,治療前後の効果量は1.35であった.「トラウマ記憶が過去のものであることが分かった」という発言も見られており,恐怖記憶の消去学習に効果があったものと推測される.本研究を通じてPTSDの治療選択肢が広がるとともに,PTSDの基盤にある恐怖記憶の分子制御機構に関連した病態解明と治療研究が推進されることが期待される.
 

PTSDの統合的理解を目指した心理学的・生物学的研究

堀  弘明
心的外傷後ストレス障害(PTSD)の中核的特徴は,トラウマ記憶の再体験症状に代表される記憶・認知の症状である.PTSDの生物学的異常については,炎症が近年注目されている.一方,本疾患の発症には遺伝要因が関与することが双生児研究等によって示されており,また,認知と炎症にも遺伝要因が存在する.これらから,PTSDの脆弱性に関与する遺伝要因は,中間表現型としての認知や炎症に影響し,それによって本疾患の発症リスクを高めるという機序が想定される.しかし,そのような可能性を検討した研究は乏しい.
筆者らは,PTSDの病因解明を目指し,患者および健常対照者を対象に,心理臨床評価,認知実験,炎症系分子等の血中濃度測定,末梢血DNA・RNA解析を含む研究プロジェクトを実施している.本稿では,PTSD患者における認知と炎症およびそれらの遺伝要因を検討した最近の研究について,筆者らの研究成果を含めて紹介し,それに基づいて本疾患の病因・病態を考察する.
 

PTSDの恐怖記憶処理と新しい治療技術の開発

坂口 昌徳・廣幡小百合
PTSDの治療には特に持続エクスポージャー療法が著効を示すものの,熟練した治療者の必要性,治療時の精神的苦痛,ドロップアウト率の高さなどから,その方法論の改善が期待されている.エクスポージャーの治療原理は,記憶研究であつかう恐怖反応の消去(extinction)の概念と整合性が高い.通常は覚醒中に,恐怖反応を惹起する刺激に繰り返し曝露されるとextinctionが誘導される.最近,睡眠中に恐怖反応を惹起する音刺激によってextinctionが誘導できることが明らかになり,睡眠中の新しいエクスポージャーとして利用できる可能性が示された.本項では記憶研究の視点でPTSDの病態を考察し,新しい治療法開発について論ずる.小見出しを付け,各項単独でも内容が理解できるような記載にした.

 

 

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