第22巻第1号(2024年7月発刊)抄録集

公開日 2024年08月27日

巻頭言

 1999年、まだ国府台にあった精神保健研究所の研修でうかがった、金吉晴先生をはじめとするトラウマティック・ストレス分野の礎を築かれた先生方のご講義が、強く心に残っている。学生だった私にとって、トラウマが否定され、ないもののように扱われる時代と、過度な注目を集め、すべてがトラウマのように扱われる時代を繰り返してきたというお話も印象的だった。

 2004年のスマトラ島沖地震を契機に、WHOの堤敦朗先生(当時)やvan Ommeren先生らのご尽力のもと、国連やNGOでの熱い議論を経て生まれたIASCガイドラインやPFAフィールド・ガイドについては、金先生、大沼麻実先生、大滝涼子先生のご尽力により、MHPSSピラミッドやPFAが分野を超えて浸透した。一方、それらが「Traumatic Event」の代わりに「Extremely Stressful Event」という用語を導入したことは、あまり知られていない。必ずしもトラウマを前提とせず、一人ひとりの状況に鑑みた適切な用語を使用することで、トラウマを否定するのでも、過度にハイライトするのでもなく、バランスのとれた対応をしようという提言だった。

 そして、ウクライナとガザのみならず、アフガニスタン・イエメン・シリア・スーダン・ベネズエラ・ミャンマー等、世界中で広がる紛争は大戦後最多となり、災害も増加・激甚化する今、トラウマがどう扱われているか、そして、争いや苦しみへの対応につき、今一度鳥瞰すると良い時期かもしれない。その際、2019年の新IASCガイドラインが有用だろう、計画や意志決定における精神障害者等当事者の意味ある参加の当たり前化、合理的配慮とアクセシビリティと包摂の確保、障害や多様性関連データの収集、多分野連携等を通して、多様性と人権に基づく取り組みを主流化しようというものだ。さらに、音楽や芸術、自然の力にもより注目したい。2007年のIASCガイドラインやPFAフィールドガイドが被災地から政策の場まで広く用いられるようになったのと同様、常にアップデートしつつ、さらにその先へと進めていけると良いと思う。

2024年3月

東京大学大学院農学生命科学研究科

井筒 節

特集 トラウマインフォームドケアの普及に向けて

 

日本におけるトラウマインフォームドケアの展開とこれからの課題

亀岡 智美
トラウマについての理解をサービス全体に組み込み,サービス提供のあらゆる局面で癒しを大切にしようとする,対人支援の基本概念であるトラウマインフォームドケアは,約15 年前にわが国に紹介された.本稿では,わが国におけるトラウマインフォームドケアの導入と展開の流れを振り返り,今後の課題について考察した.
 

アメリカにおけるトラウマインフォームドケアの推進と普及:医療分野を中心とした研究と実践の展望

細田(アーバン) 珠希
本稿では,アメリカにおけるトラウマインフォームドケア(TIC)の推進と普及について歴史的・社会的・文化的観点から考察する.前半では,トラウマに関する研究成果がトラウマの影響を受けた人を支援するための法整備に反映され,さらにTIC 推進が国家戦略として進められることによって現場でのTIC 実践につながった経緯を解説する.後半では,医療におけるTIC 普及に焦点を当て,医療スタッフへの教育やリソースの不足,組織的な支援体制の欠如などTIC 実践における課題を指摘する.また,医療でのTIC 普及に向けたカリフォルニア州の先進的な取り組みの実例を紹介しながら,TIC 導入のステップを解説する.最後に,アメリカでの経験を踏まえ,日本におけるTIC 導入の可能性について考察を深める.
 

精神保健福祉センターにおけるトラウマインフォームドケアの普及と活用実態に関する調査

臼田謙太郎・西  大輔
本調査はトラウマインフォームドケア(TIC)の普及実態を把握するために3 年前に実施した調査の追跡調査という位置づけで,全国の精神保健福祉センターを対象に実施した.TIC の概念の浸透度は全国的に増加していた.また必要性の認識,研修実施割合も上昇しており,3 年前と比べてニーズが全国的により高まっていることが示唆された.これは,近年TICに関する書籍や研修が増加しており,またホームページなどの整備が進んでいることが関係している可能性がある.一方で,研修実施に際してのハードルとして「時間的余裕」や「予算」などが多く挙げられていた.センターにおいてTICの必要性は浸透してきているものの,実施にまでは至っていないセンターも少なくない状況がうかがえる.そのため既存の事業や研修にTIC の視点を入れ込むなどの実施方法の工夫がTIC の取り組みを展開するために特に重要であるかもしれない.またいくつかのセンターにおいての実践例も,未実施の精神保健福祉センターが実施を検討する際に効果的であると考える.
 

医療従事者における心理的応急処置とトラウマインフォームドケア

浅岡 紘季・小井土雄一・河嶌  讓・池田 美樹・宮本 有紀・西  大輔
心理的応急処置(PFA)は,災害等ストレスの強い出来事に遭遇した人々の急性の心理的苦痛を和らげる支援である.PFA 研修は,トラウマインフォームドケア(TIC)にも有効なトレーニングである可能性があるが,PFA研修の受講経験とTIC との関連は明らかにされていない.本研究では,日本の医療従事者におけるPFA研修の受講経験とTICに対する態度の関連を調査することを目的とした.2021年5月21 日から6 月18 日にインターネットによる調査を実施した.TIC はAttitudes Related to Trauma Informed Care Scale 10-item short form(ARTIC-10)を用いて測定した.484名の医療従事者が解析対象であり,77名(15.9%)がPFA研修の受講経験があった.単回帰分析および重回帰分析の結果,PFA研修の受講経験(B = 0.19, 95% CI: 0.02-0.36, P= 0.03; B = 0.17, 95% CI: 0.01-0.34, P = 0.04)はARTIC-10と有意に関連していた.医療従事者はPFA研修を受講することで,TIC に対する態度が向上し,トラウマを経験された方にトラウマに配慮したより良いケアを行える可能性が示唆された.
 

プライマリ・ケア医へのトラウマインフォームドケアの普及に向けて

香田 将英
プライマリ・ケアは,地域住民にとって身近で,長期的な関係性の中から,予防から治療まで包括的な健康管理を提供する役割を担っている.逆境的小児期体験の蓄積が成人期の精神面だけでなく身体面の健康リスクにも影響することから,プライマリ・ケア提供施設の受診者には,トラウマ経験者は少なくないと考えられる.プライマリ・ケア医はトラウマの健康影響に気づき,適切に支援する重要な役割を担う.トラウマインフォームドケアに基づいた患者中心の医療を提供することで,患者の個別性に応じたケアを通じて,健康アウトカムの改善が期待される.しかし現状では,プライマリ・ケア現場でのトラウマインフォームドケアの普及は不十分であり,医療者の知識不足,組織的取り組み不足,エビデンス不足が障壁となっている.トラウマインフォームドケアを根付かせるには,教育研修の充実や実証研究の推進など,多角的なアプローチが求められる.
 

トラウマインフォームドケア教材開発の実装

大岡 由佳・大江美佐里・毎原 敏郎・栁田 多美
近年,トラウマインフォームドケア(TIC)の知見が北米から本邦に入ってくることで,TIC 研修が各地で行われるようになっている.本稿では,TIC 研修について,海外と日本の研修状況を俯瞰した.海外ではさまざまなTIC の研修が1 日のワークショップやウェブベースの方法で実施されていた.日本においても,海外のTIC 研修の紹介のみならず,独自に考案されたTIC 研修が単発やシリーズで展開されていた.その日本の研修の一例として,筆者らのオンライン上のTIC 教材開発に至った経緯からその成果までを概観し,そこから,TIC研修の意義を考える.
 
 
 

「鬼は内,福は外」―トラウマケアと暮らし―

堀越 勝
我々は暮らしの中でさまざまな出来事に遭遇し,時にはトラウマティックな体験をすることがある.その時,良いことをすれば良いことが,悪いことをすると悪いことが起こるという「公正世界の信念」などでその事態を理解を試みるが,割り切れない.この割り切れない思いは,本人に罪悪感や自責の念,時にはPTSD 様の症状をもたらす.さらに周囲も公正世界の信念で事態を理解しようとすると,かえって傷ついた本人を責めてしまう.結果的に本人は苦しみのあまり周りに壁を作って防衛するようになる.皮肉にもその壁が邪魔をして外部からの援助がもらえず,壁の内部は罪悪感や自責の念で満たされる.まさに「鬼は内,福は外」状態である.この状態を打破するには,いきなり壁を壊しにかかるのではなく,ケアの対話から始め,壁に寄り添いながら,本人が心の壁の扉を開け,自ら有効な介入法を選び取ることができるように援助する.そうすることで「災い転じて福となす」は実現することになる.
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