公開日 2026年04月28日
巻頭言
近年,領域を超えてトラウマインフォームドケアについてはすそ野が広がってきている.トラウマの理解が広がり,社会がそのこころのケガに念慮した関わりができることは大変意義あることである.一方,日常生活が立ち行かなくなるほどの安全観や世界観の根幹を揺るがすトラウマを経験した人々への専門的治療はどうであろうか.残念ながら,世間では十分には知れ渡っていないのかもしれない.
このような背景の下,2024年度の診療報酬改定における「心理支援加算」の新設は,トラウマ治療における転換点となった.この制度は,外傷体験に起因する症状を持つ患者に対し,専門的心理支援を公的医療保険に組み込み,自己負担額を抑えることで,経済的負担を軽減することになった.特に対象となる外傷体験の定義には,直接体験だけでなく,目撃や近親者の出来事も含まれており,現代的なトラウマ理解が政策的に承認された意義は大きい.しかし,この直近1年で,この診療報酬改定による心理支援加算がどれほど活用されてきただろうか.
制度の成立はゴールではなく,その活用こそが問われている.制度は使われなければ意味がないのである.この加算は,医師による外傷体験の有無確認と詳細な診療録記載を必須としており,専門的な診断プロセスの質の担保を求められる.制度を機能させるための最大のボトルネックは,専門人材の供給不足といえる.加算が実質的に奨励するエビデンスに基づくトラウマ焦点型治療を実施できる専門家(医師,心理職)が不足している.また当事者をその治療や医療機関に橋渡ししていくトラウマ治療について知っているソーシャルワーカーも不足している.
学会誌の役割は,こうした実務的な障壁を乗り越えるための情報を統合し,臨床の現場を支えることにある.制度というツールを有効に活用し,トラウマを負ったすべての人々に質とアクセスが保証された専門的支援を届けること.これが,今,我々に課せられた最大の使命であろう.
2025 年11月
武庫川女子大学
大岡 由佳
特集 トラウマと報道
惨事報道の視聴とメンタルヘルス:トラウマ・インフォームド・ジャーナリズムの提案
新井 陽子
惨事報道は社会に「事実」を伝え,市民の「知る権利」に応える重要な役割を担う一方で,その生々しい映像や音声は視聴者や報道者自身に深刻な心理的影響を及ぼし得る.2001 年の米国同時多発テロ以降,国際的研究は,繰り返し報道視聴が急性ストレス,不安,抑うつを増幅させることを示し,東日本大震災においても同様の知見が蓄積されている.また,記者自身も取材対象者の苦痛を間接的に引き受け,二次的外傷性ストレスや燃え尽きに直面する事例が報告されている.特に映像と音声の複合作用は,侵入記憶や過覚醒を強める要因となり,社会的意思決定や報道の質にも影響を及ぼす.本稿では,こうした惨事報道の二面性を踏まえ,トラウマ・インフォームド・ケア(TIC)の原則を報道実務に応用した「トラウマ・インフォームド・ジャーナリズム(TIJ)」の導入を提案する.安全性,信頼性,同意,協働,文化的配慮,被害最小化を柱とするガイドラインを整備することで,事実伝達と心理的配慮の両立を図り,持続可能な情報環境を構築することを目指す.
戦争と報道―フェアな立場を維持する重要性と難しさ
東 大作
戦争報道において,フェアな立場を取ることがいかに重要か,そしてそれがいかに難しいかを,2023年10 月に勃発したガザ戦争をテーマに分析している.最後に,日本が特にガザでの人道支援で果たせる役割と,それに向けたメディアの重要性もあわせて論じている.
性暴力取材の課題
河原 理子
性暴力取材の環境は近年変わり,少数の詳しい記者だけでなく,どんな分野を担当する記者も性被害の訴えに直面する可能性がある.基礎知識を広く共有する研修が求められている.取材報道にあたっては,「専門的なインタビュー技術,法律の理解,そしてトラウマの心理的影響についての基礎知識」の3 点が必要不可欠だ.取材相手(特に被害者/サバイバー)と,取材者自身,読者・視聴者が受ける影響も考えなければならない.トラウマの基礎知識は,事件,災害,虐待,いじめ,戦争など,さまざまな状況下でトラウマを負った人に接する可能性のある者が,広く学ぶべきことだが,日本の報道界ではまだ途上だ.取材者自身のダメージについては,強靭であることを求めるジャーナリズム文化や,目の前にしんどい思いをしている当事者がいるのに自分のことなど語れないという心情があり,共有されにくかった.他国では,取材を受けた当事者や,トラウマ専門家と取材者の協働が進んでいる.
災害とパンデミックにおけるSNS 活用:専門家情報発信の現状と展望
村上 道夫・小林 智之・坪倉 正治・忽那 賢志
大規模災害やパンデミック発生後において,専門家や当局から科学情報を発信するうえで,ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の重要性は増している.本原稿では,福島第一原子力発電所事故とCOVID-19という災禍におけるTwitter(現X)上での情報拡散の特性や専門家・当局に対する評価方法の研究事例,ならびに,処理水やCOVID-19に関する専門家によるSNS情報発信の実践例を紹介した.Twitterにもとづいた解析結果から,福島第一原子力発電所事故後,Twitterユーザーは限られた数のインフルエンサーから偏った情報のみを受け取るという,エコーチェンバー現象が見られたことが確認できた.一方,COVID-19のワクチン開発後には,タイムリーで継続的な情報発信を行った専門家を好意的に受け止めるユーザーが多かった.この知見は,処理水やCOVID-19に関して情報発信を行った専門家の経験とも一致した.さらに,情報発信を行う専門家を守るための組織体制や法的整備の重要性が指摘された.
原著
性暴力被害者における自己客体化とPTSD 症状の関連の検討―認知行動的要因と比較して―
松岡 優菜・岩井 圭司・伊藤 大輔
本研究の目的は,性暴力被害者の自己客体化とPTSD 症状の関連を明らかにするために否定的認知と回避的対処との比較をしながら検討することであった.トラウマ体験を持つ女性374 名を対象に無記名式のWeb式質問紙調査を行い,トラウマ体験,自己客体化,否定的認知,回避的対処,PTSD 症状を測定した.まず,性暴力被害トラウマ群(66 名)とそれ以外の一般トラウマ群(308 名)に分類して両群の得点の差を検討したところ,性暴力被害トラウマ群のほうが自己客体化得点が高かった.次に相関分析の結果,経過月数以外の両群の各変数と自己客体化はすべて有意な正の相関を示した.そして階層的重回帰分析の結果,性暴力被害トラウマ群において,認知行動的要因の影響を考慮しても,自己客体化はPTSD 症状に有意な正の影響をもつことが明らかとなった.これらの結果は,性暴力被害者に対する介入において自己客体化への着目が有用であることを示唆している.
東日本大震災における原子力災害後の避難者・帰還者のメンタルヘルスと支援およびメディアの果たした役割
藤田 浩之・元吉 忠寛・狐塚 貴博
東日本大震災による福島県の原子力災害では原発周辺に避難指示が出され住民が全国に避難した.震災8 年半後の時点で避難生活を続ける人(避難者),避難生活を終え自宅に戻った人(帰還者),避難しなかった人(避難未経験者)を対象にストレスや不安,支援を受けたことへの認知,メディアの認識と影響について明らかにすることを目的にweb 調査を行った(N = 1,104).避難者と帰還者のK6 のハイリスク率(13 点以上)はそれぞれ16.9%,15.1%であり未経験者(9.9%)と比較して有意に高かった.問題・不安(10項目)の因子分析の結果,「生活不安」と「子孫や放射線に関する不安」の2 因子が抽出された.同様に支援への認知(9項目)では「直接的なサポート」と情報提供等のメディアを通じた間接的な支援の「メディアを通じたサポート」の2因子に分かれた.専門家等がメディアを通じ情報やメッセージを伝えることで支援につながる可能性について考察した.
資料
トラウマインフォームドケアに対する態度と主体価値との関連についての検討
小西 優歌・浅岡 紘季・飯田 真子・澤田宇多子・河嶌 讓・池田 美樹・宮本 有紀・小井土雄一・西 大輔
本研究の目的は,医療従事者の重視する主体価値と,トラウマインフォームドケア(TIC)に対する態度の関連を検討することである.災害派遣医療チーム・災害派遣精神医療チームに登録している医療従事者71 名を対象に,Schwartz の理論に基づく主体価値11 項目の重要度と,TIC に対する態度尺度(ARTIC)の得点を測定した.主体価値の項目を独立変数に,ARTICの得点を従属変数においた回帰分析の結果,「社会をよくすること」と「積極的に挑戦すること」の項目の重要度がARTIC の得点と有意な正の関連を示した.これにより,支援者の前向きなTICの受け入れ・実践や,組織・現場における効果的なTIC の普及のためには,これらの価値を重視する支援者を組織のTIC 実践における中心的な存在として働きかけていくことや,この2 項目とTIC の重要性・必要性とのつながりを踏まえた教育やトレーニングを実施していくことが効果的であると考えられた.
